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男が銭湯から帰ると、アパートの部屋が消えていた――「あなたもわたしも“ここ”にいる」ことを確かめる一人芝居、神戸で再演

◎過去の上演で頂いた感想

--地球空洞説は一度別で見たことがあったのですが、アレンジが所々あり、楽しめました!

--濃密な時間でした
よくも1人で10人前後を演じ分けきったなと
そして寺山独自の雰囲気や舞台の雰囲気も充分に感じられました
BGMの作り方も良かったです

イカロスまつりvol.4(水道筋移転10周年記念祭)参加公演
寺山修司没後40年記念認定事業


日時 2023年8月12日(土)15時開演
各30分前開場・受付開始
※ぬまたぬまこ『拝啓ノスタルジー』との併演


STATEMENT

90年代生まれの私が物心ついたころか小中学生あたりのころかに起こった殺人事件の加害者(たぶん今の私と同じくらいの年齢だ)が語っていたことだったと思うが、「周りの人間が、テレビの向こう側の人か、テレビゲームのキャラクターのように思える」という話が取りざたされ、若年層の社会問題のように取り上げられていた記憶がある。

それは、どういう心境だろう、と今更ながら考えている(考えている、というか、その記憶が時折ふっと、幽霊のように胸中に立ち現れる)。受けごたえや言動を、うまくその人が望んでいるであろうものを選択していけば友好度があがったりご褒美がもらえたりするゲームのような感覚なのだろうか。それとも、たとえ間違った選択をしてもやり直せたり、こちらがどなったり突っ込みを入れたりしてもリアクションもなく進行していく、こちらに無害で、現実で言えば相互に干渉しえない(だからこそこちらがどうふるまっていてもいい)対象、というようなことなのだろうか。

最近だとYouTubeの、特にユーチューバーがこちらに話しかけてくる形の動画はそうだろうと思う。まああれは、コメントで働きかけることができるが、基本的に動画を見ていようが、席を離れて聞いているだけだろうが、関係なく動画は進んでいく。こちらが目を向けていなくとも、動画の中の人物はにこにこしながら映画を紹介したりしている。

演劇はどうだろう。今も大多数の作品は、「第四の壁」という用語を用いて舞台上と観客席を区切り、観客を意識しないことで芝居の世界を確立しようとする。たしかにそれによって実現される完成度も魅力的だし、観客は安心してその舞台の世界を観ていられる。

だがそういう作品だけでいいのだろうか?せっかくどちらもが「そこにいる」のに、相手を無視してしまうのが最善なのだろうか。

本作で取り上げる戯曲の著者、寺山修司は自身の演劇論について綴った著書『迷路と死海』で、「ペストについて書かれた小説の一説」(ある医師が診察室から出たところで一匹の死んだ鼠に気づき、そこが鼠が普段いそうにない(要するに死骸が転がってるはずがない)であろう場所だったので気になり、「こいつはそこからもってきたものに違いない」と推察する、というような内容)を引用して、こう記す。

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この「外からもってきた」ということが、劇による最初の接触なのだ。そして「一匹の死んだ鼠」こそは、もう一つの現実、仮構の世界状態(中略)への感染のはじまりとなる。(中略)「見たところただ平穏な町」へ、外から、一匹の死んだ鼠をもちこんでくることが、虚構をたくらむ俳優の役割ということに引例されるのである。(『迷路と死海』p.74)

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これをこそ、この作品(戯曲には現実の「公園」で上演する、と指示書きさえある)を行うにあたって、意識しなければならないと考えた。

幸い(?)にして一人芝居にすれば、語りかけられる共演者はいない。観客に語り掛ける。目を合わせる。生身の人間であるということをもって働きかけることができる。

​今作はそういうことを主眼に行うつもりです。

戯曲 寺山修司 著『地球空洞説』
構成・演出・出演 役者でない
舞台監督 伊勢川佳久(イギヲ)
照明 北枕すゞめ(横連合 / ウチポケっと.Inc)
音響 hiiragi
当日制作チーフ しのはらひなた(心中企画艫たおれ)
宣伝美術 安枝知美
宣伝デザイン 橋本ゆいか
主催 役者でない
協力 株式会社テラヤマ・ワールド、イカロスの森、心中企画艫たおれ、横連合、ウチポケっと.Inc、イギヲ

​過去の上演(初演・京都)

日時 2023年3月25日(土)、26日(日)
開演時刻 25日14時、18時/26日11時、15時
各30分前開場・受付開始


STATEMENT

今回取り上げた戯曲『地球空洞説』を読んでいたのと同じタイミングで、批評家小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫 刊)も読んでいた。

その中のひとつの章(言葉)で、本居宣長の言葉「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」を引用して、「(和歌として実際に文字として書かれる)言葉は真似し難いが、(その和歌に込められる)意味は真似し易い」と言われる(p.71)。なぜなら「意には姿がないからだ」と(p.73)。

これを読んで少し合点するところがあった。これを身体表現に転用して、例えば私が(例に出すだけでそんなたいそれたことはしないが)「舞踏の開祖土方巽と同じ心で踊っている」と言ったとする。

呆れてでも興味をもってでも、いざ私の踊りを見た人は「到底そんな域には達していない」と言うだろう。なぜならそこまでの鍛錬も、所作も、舞踏譜(いわゆる振り付け)の継承もしていないのは、一目見れば一目瞭然だからだ。

​しかしそれは、私の踊りを見てそう判断されたに過ぎない。「土方巽と同じ心で踊っている」と豪語するのは誰にも止められるものではない。そう言うのを聞いただけで、踊りを見てもいない者に、その意思を否定することはできないはずだ(そんなことを本当に言う気はさらさらない、ということは重ねて書いておく)。

 

そう考えると確かに「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」だと感じた。

 

さて、『地球空洞説』の話に戻る。この戯曲にはタイトルの通り「地球の中は空っぽなんだ」と言う人を筆頭に、様々なものの内側や、その場が夢か現実か、など「その場ではすぐには確認できないもの」に対して、勝手なことを言う者たちが多数登場する。そこから私が考えたこの戯曲の主眼の一つが「他人から見えるもの(外見)でしか、自分のアイデンティティを確立することはできない」つまり「内面のことはなんとでも言える」ということだ。なるほど自分のアイデンティティをわかってもらおうと、人は好きな服を着るし、好きなものを食べるし、好きな場所へ行く。その様子をSNSに投稿する。しかしそんなものだけでは、自分のことをわかってもらったと思ってほしくない。内面まで知ってもらったふうに思ってほしくない。ではどうすればいいのか。

「私は〇〇だ」と、口に出して言う。それだけで良い。

むしろそれ以外にどうすればいいのだろうか。「内面のことはなんとでも言える。」むしろ、「言わなければわからない」「言う以外に示し方がない」と言えるかも知れない。それこそ外見に表しでもしない限りは。

「本当の私はこんなんじゃない」と思っているなら、それを言葉にして出す、外見で表す。「内側のことはなんとでも言える」これは諦観ではない。外見ばかりが気にされ得る現代の、ささやかな希望だと思っている。


戯曲 寺山修司 著『地球空洞説』
構成・演出・出演 役者でない
舞台監督 伊勢川佳久(イギヲ)
照明 平野明
音響 桑木陽彩(1/fゆらぎ)

音響補佐 片山寛都(ガリヴァー遊覧船)
当日制作チーフ 河合厚志(一般社団法人フリンジシアターアソシエーション)
宣伝美術 安枝知美
宣伝デザイン 橋本ゆいか

 

主催 役者でない
協力 株式会社テラヤマ・ワールド、一般社団法人フリンジシアターアソシエーション、KYOTO ART THEATRE URU、1/fゆらぎ、イギヲ、ガリヴァー遊覧船

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